
▲曲流舎句碑群
大洞院の境内に、芭蕉門下大島蓼太につながる夫桑庵弗児の門人で、幕末期の俳壇に大きな影響を与えた曲流舎海保可川の句碑が建っている。
『しぐるるや稲づまからの空うつり 可川』
参道に入ると境内左右に句碑が立ち並び曲流舎俳諧の盛況をしのばせる。可川は俗名を海保仙治、通称九郎左衛門といい、寛政5年(1793)に生まれ、俳諧結社曲流舎をおこし、嘉永2年(1849)俳号披露の開筵(句会を設ける)賀集『由婦花』を出版、金江津連として常総地方にその名を馳せ、元治元年(1864)72歳で亡くなった。墓碑は上金江津墓地にある。その後その俳系は連綿と続き現在22世に至っている。主な句碑を紹介すると左の通りである。
世にさわるもの音もなし蓮の露 2世一川
涼風や気がるにかえる帰もと元の道 3世雙流
出歩けば裾風寒し春の月 5世静川
松風にむかひてさますや花の酔い 6世文丈
これかぎりおかぬしるしに忘れ霜 8世煮石
他にかちょう可聴、可逸、三善、可融、平雪の句碑がある。4世糸麿は新利根町狸穴に、7世糸川は龍ケ崎市半田に、それぞれ出身地に句碑が建っている。
萬年山大洞院は、慶長5年(1600)成田市祥鳳院五世天岩呑祝大和尚を開山(寺の創始者)とし、曹洞宗に改宗された寺である。天岩は江戸崎城主土岐頼次の次男で春若丸といい祥鳳院4世禅師の剃髪を受け出家、龍ケ崎の大統寺の開山ともなっている。大洞院本堂は常に曲流舎の句会場となっていた。可川の句碑は文久2年可川の古稀祝(70歳の祝)に建てられたものである。
場所 | 河内町金江津四一九四番地 萬年山大洞院 |
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