観光・文化

河内偉人伝

戦後の短歌に新境地を開いた、茨城を代表する歌人。

大野誠夫長塚節に次ぐ茨城を代表する歌人として知られる大野誠夫は、大正3年(1914年)、生板村(現在の生板地区)の大地主で回漕問屋「大野屋」の四男として生まれました。旧制中学時代から短歌をはじめた誠夫は、戦後、「薄明」42首を発表し、歌壇に彗星のごとく登場し脚光を浴びました。そして最初の歌集『薔薇祭』では、戦後の風俗や人々の心境を芸術派の立場から表現した短歌が高く評価され、歌壇のスター的な存在となったのです。
誠夫は自伝的エッセイ『或る無頼派の独白』の中で、「私は青年のとき、志を立ててこの部落を出たわけではない。それどころか、この村が好きでたまらなかった」と述べています。戦後の短歌に新風を吹き込んだ大野誠夫は、昭和59年(1984)、惜しまれつつ69年の生涯を閉じました。水と緑のふれあい公園にある歌碑

 

医学者にして日本スキー界に発展に尽力した巨星。

大野精七日本スキー界の草分け的存在であり、医学界にも数々の実績を残す大野精七博士は、明治18年(1885)、生板村丸田(現在の生板地区)に農家の次男として生まれました。
大正元年(1912)に東京帝国大学医学科大学を卒業。ドイツ留学中にすっかりスキーに魅了され、帰国後、北大教授に就任するとともにスキーの普及に尽力し、宮様スキー大会の開催や、大倉山シャンツェの建設を実現。こうした努力の積み重ねが、昭和47年(1972)の冬季オリンピック札幌大会の開催へと結びついていったのです。
後年、80年ぶりに母校の生板小学校を訪れた博士は、「精神一到何事か成らざらん」の色紙を残されました。その信条を貫き通した博士は、昭和57年(1982)97歳で永眠。従三位に叙せられました。

 

 河内の良寛さんと呼ばれた書の達人。

秋山海堂書家の秋山海堂は明治39年(1906)、現在の生板地区で農家の長男として生まれました。25歳の時、権威ある「書鑑」で特待生に合格。翌年から著名な書道展に連続して入賞、「東に海堂あり」と全国にその名をとどろかせました。温厚な人柄と書の達人ぶりから、いつしか「河内の良寛さん」と呼ばれるようになり、海堂自身も良寛への畏敬の念を強め、展覧会への出品作品も良寛を題材とするものがほとんどとなっていきました。
昭和29年(1954)には白龍書道会を設立し書道の普及に努め、会員数1万人の団体に育てました。また、郷土の発展にも尽力し、郡町村選挙管理委員会連合会の初代監事に就任。平成6年(1994)、勲6等単光旭日章が贈られました。そしてその年、惜しまれつつ永眠、享年87歳でした。今も人気ある海堂の書

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