
▲三義人供養塔
身命をなげうち地域農民を救おうと代官の暴政を訴え捕らえられ獄死した三義人の供養塔である。高さは4.1メートル、中央に片岡万平(生板西坪)、左に石山市左衛門(生板関場)、右に成毛与五右衛門(生板浄玄)の戒名が義篤院慧戒徹證居士、等岳照樹居士、但然慧燈居士と刻まれている。
文化14年(1817)、 代官吉岡次郎右衛門支配下の天領、生板村など8か村(現在の河内町・龍ケ崎市・水海道市・石下町にわたる)農民430余名は、打ち続く凶作にもかかわらずかえって重い年貢を課した代官の非法を江戸の代官邸に門訴、万平らはさらに勘定奉行所に訴え出て犠牲となった。しかし四年後、代官は解任され年貢は軽減された。
近隣村民は三義人に感謝しその霊を供養するため、文政6年(1823)にこの法華塔を建立した。塔には万平らを陰で支えた亮海和尚の名が、台座には供養塔建立に協力した13か村100名にのぼる村民の名が刻まれている。その後万平らが江戸に向け出立した10月20日を命日として供養が続けられてきたが、昭和47年「三義人顕彰会」がつくられ全町挙げて三義人155年忌慰霊法要が盛大に行われた。現在は12月の第1日曜日に法要を行っている。
妙行寺は満足山極楽院と号する天台宗の寺で大同元年(806)満願上人の開基と伝えられ、江戸時代には上野寛永寺の直末寺として、末寺14か寺を数えた。本尊の木造阿弥陀如来坐像は河内町唯一の茨城県指定の文化財で、慶派(運慶・快慶の系統)の鎌倉時代の作である。他に平安から室町時代にわたる仏像5躯と江戸時代の仏画1幅が町指定文化財になっている。
場所 | 河内町生板4947番地 満足山極楽院妙行寺 |
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